オペラは、歌手・合唱・オーケストラ、時にはバンダと言ってオーケストラピットの外で演奏する奏者や舞台裏の合唱など、通常の演奏会形式の作品を作曲する場合とかなり状況が違う。今回の「うずら」も、俳優・子役・歌手、そして混声合唱と児童合唱、二管編成のオーケストラという形態で、それぞれのシーンに合わせてどのようにバランスを作って行くかが鍵で、作曲作業に於いても常に立体的な思考を求められた。

 特に、今回合唱団は地元和光市を中心に、隣接の児童合唱団や高校のグリークラブの参加を得ることができ、総勢170名余りの大合唱団を組織することができた。問題は、その配置である。通常オペラの場合は、合唱団も民衆や兵隊などの役柄を持ち、演技しながら歌うことが多いのだが、「うずら」ではその形式をとらず、オラトリオ形式、つまりステージ奥に合唱隊として配置することとした。これは前回書いた(Vol.7)“狂言回し”というストーリーテラー的な役割とギリシャ劇でいうコロス形式を用いたためである。物語の進行を明快にするためだけでなく、ソリスト・合唱・オーケストラという三角形の関係の中に主人公の詩人を投入し、俳優がオペラ作品に存在する命題を明確にしたいと言う企図からであった。

 私は本来、作曲する立場として、日本の伝統音楽・民族音楽に立脚した創意を主義としているのだが、「うずら」に関しては、それに加え現代の大衆エンターテインメントのあり方についても考察を広げた。アバンギャルドな現代音楽による現代オペラ、ハリウッド的な華美なミュージカル、深刻なデカダンに陥るアングラ文化、私たちはそれらを受け入れながら、それがエンターテインメントだと思うようにしているが、果たしてそうなのか?大衆(マス)を喚起するエンターテインメントとはどのようなものなのか?

勿論、これらは時代と社会背景によって左右されるであろうし、あらゆる啓蒙運動によって開花する場合もある。しかし、当初から考えていた「日本人(語)のオペラとは?」という命題は、今までの形態では決して解決できるものではないと思うのである。その意味では、「うずら」は大衆のための実験オペラかもしれない。しかし、絶対に言えることは、単なる実験ではなく、制作過程から「面白い」という選択によって決断をして行き、現場の人たち、つまりは最初の観客とも言えるスタッフやキャストの提言なども取り入れつつ創作して行ったことが大衆エンターテインメントの実を結ぶのではないかと言うことである。

 前述した作曲家としての立場と同時に、私は多くの映画やテレビ、芝居などの所謂劇伴と言われる音楽を作ってきた。これは正に大衆エンターテインメントなのだが、それらの多くは習慣的嗜好によるエンターテインメントであり、実験現場的な立場とは大きく異なる。しかし、これら二つの世界で生きてきたからこそ、私はそれらを交錯させ、独自の形態を作りたいと思ったのである。

 面白い。この判断こそが、この「うずら」の制作を進めた原動力であった。